19:00本郷

アドルフ・ロースが生きた19世紀末から20世紀にかけては、アーツ・アンド・クラフツ運動が始まり、そして終焉した時期に重なる。

 

 

ロースの残した言葉を読んでいる。

言葉感や、また時代背景・問題意識が異なるため、整理するのが難しい。

 

-神が芸術家を創造し、芸術家が芸術(聖霊)を創造する。

-ゆえに「芸術のための芸術」は、「実用物に対する装飾」とは全くもって似て非なるものである。むしろその混淆が芸術を追いやってしまっている。

(芸術に関して)

 

-実用がもののフォルムをつくりだす。フォルムや装飾は、ひとつの文化圏全体に生きる人間の非意識的な共同作業の結果である。

-一度解決されたならば、新しい発明によって古いものが用いられなくなるか、新しい文化形態によって根本的に変更されるまで、何世紀ものあいだおなじフォルムを取り続けるだろう。

-装飾は反動もしくは退廃であり、そもそもいかなる人間的な関係も有さず、また世界の秩序とも無関係な代物である。それは必然として消滅した場合、ふたたび現れる可能性がなくなる。これは文化の過程である。

(実用物とそのフォルム、装飾に関して)

 

 

文面上、ロースが最も繰り返し危機意識を表明していたのが、芸術と手仕事の混淆のように感じた。

 

「装飾は罪だ」

 

という、詳しく知らなくても明らかにひとり歩きしてしまっているような言葉には

こういった時代背景や主張があったのだなぁと

 

アーツ・アンド・クラフツ運動によって装飾と芸術の境界が曖昧になり、

frivolousとも言えるような部分に、流行のまま芸術家が駆り出されていた状況だったのかもしれない。

 

それは産業革命によって時代が一気に変わって来たことに対する拒否反応の一環として発生した、本質的でない行為である、

と言いたかったのだろうか。

 

恐怖感・本能的な拒否感から時代に背をそむけることで、真理・芸術が遠ざかっていくことへの警鐘だったのかもしれない。

 

「自分が属する時代への尊敬の念をもたぬ者には過去の時代への尊敬の念も欠けているものである。」という言葉はいつの時代に生きるものにも痛く刺さる。

 

 

時代を正しく捉えること、歴史の中での自分のたっている場所を見つめるのは気が遠くなりそうな行為に感じる。

言語で考えすぎても、枠組みに雁字搦めにされてしまいそうだ。

 

直接未来をみることができないから人はつい懐古主義に陥ってしまうけれど、思考を放棄しないようにしたいなぁ、とか。

 

 

 

 

19:00 本郷

正直に話したくないことが本当はたくさんある。

要するに、とまとめられたらひとたまりもない。

 

関係性に名前をつけること。所属や成果や性質で描写すること。

「友達」とか、「浮気」とか、「結婚」とか。

その人は高校同期で今はベンチャー会社を立ち上げてるひとでね、とか。

一見隠キャでとっつきにくいけど、優しいひとなの、とか。

誰それの元カノで、今は結婚して3児の母らしい、とか。

 

私たちは「いわゆる」から逃げることがとても難しい。

 

 

「結局はお金なんだよな」「本当は自由に生きれればいいんだけど」

「あーあるあるだよね、そういうひと」

 

みんなの言葉に、たまにうんざりしてしまう。

その言葉を発している本人も、うんざりしているように見える。

 

だけど、類型化すること、知っている言葉で描写することに我々は慣れすぎているのだろう。

 

少しずつ、新鮮だったものも色を失って、

一方でシンプルなものに還元されていくような感覚すらある。

 

とはいえ、最近は伝えることにセンシティブになりすぎるゆえに、

ひとりよがりの会話しかできてないのかもしれない。

聞くことがきっとうまくできていないから、思うように伝えられないのだろうなぁと思う。

これもまた聞いたことあるような話で、嫌になっちゃうけれど。

 

 

 

23:50 本郷

 五畳弱の小さな部屋には遮光カーテンがない。

 午前10時の太陽光は、細いストライプのレースカーテンを通り、少し優しく二人を照らす。冷房は25度まで落とされていた。一人で寝るときは28度でも肌寒いのに。朝起きると、肌がじんわり湿っていた。

 
 身体が地面に水平のまま話したことは全部ピロートークなんだって、と彼は言う。ベッドでしか話せないことと、そこでは口を紡いでしまうことがある。
気だるさと背徳、人の吐息と寄り添ってしまった朝は、一日にフィルターをかける。少し歩みが遅くなる。

 
 街ゆくカップルの表情が静止画の連続のように映る。いつもなら他人の肩のあたりをフワッとなぞるだけの眼が、俯瞰したふりをして、流れゆく街の速度をみつめる。

 

 
 ちさとの文章 って感じだな~と笑い飛ばす昔の恋人の声が、夏の夜風とともに頭を抜けていった。江國香織の読みすぎではないか、と。彼は江國香織なんて到底読まないのに、私が読んでいると、いつも意地をはって借りて帰る。 
 ハードボイルドワンダーランドだけは、読みきれなかったと言っていた。それも含めて、彼に貸した本は何一つ帰ってきていない。舟を編むが面白かったと喜んでいたのを思い出す。その本は、私が読みきってなかったんだよ。

 


 帰宅すると部屋はすっかり暗くて、自分では買わないどん兵衛と、丁寧に畳まれた黒いスウェットと、ひとの匂いがした。

 

 遮光カーテンのない部屋では、最低限の電気しかつけない。光がこんなにもくるくると表情を変えていくのがいつまでも新鮮だ。

 

 鎌倉の浜辺に押し寄せる波や、葉っぱに身を扮する昆虫の質感を見て、ほっとするように。確かにそこにあるものを、そのままに受け入れることがたまにはできる。

 

 本屋の並びくらい、生活には小説とノンフィクションが入り乱れていて混乱してしまうのかもしれないけど。

 少し素直に生きてみようかなと思わされる。